「一人で死ねよ論争」に思うこと

「一人で死ねよ論争」って何のことかおわかりになると思います。川崎殺傷事件のことで、多くの子どもたちを十数秒で切りかかり、子供が一人死亡、大人も一人死亡、犯人は自分の首を刺し、その場で自殺した事件。

「道連れにするな」「被害者の気持ち、親の気持ちを考えろ」「勝手に一人で死ね」

こういう考え方が世の中では多く、犯人を擁護したわけでもないのに「一人で死ねという非難を控えて欲しい」と言った人が攻撃され大炎上。

「どう思う?」とヨメさんに聞いてみた。当然、答えは「一人で死ねば良い」という当たり前で、ある意味「健全な反応」で安心?しました。

健全で常識的で「他人に迷惑をかけてはならない」と育ちそれを信じて生きた人は、そう考えるはず。

でも私は違うことを考えるんですよ。

世の中、健全でもなく精神的に問題を抱えていたり、それは単なる思い込みかもしれないけれど、うつ状態だったり、孤独に耐えられず苦しんでいるひともいるじゃないですか。攻撃的になったり、他人や社会を罵ることもある。そしてとんでもない行動に移す人もいる。

こういう人たちが「何をしようと許せ」というんじゃないんですよ。罪は罪で、犯してはならない罪があって、犯人を許す必要もない。

でもねぇ、健全で常識的でそれを強要する社会が「孤独に耐えられない人たちを追い込む」ってことがあるし、それに耐えられない、行き場のない気持ちが私にはよくわかるんですよ。私もそういう時期が長く続いたから。

かつて秋葉原で無差別大量殺人(通り魔)が起きたときにも、犯人像が明らかになったときにも同じことを感じました。

また自殺するにも、一人では死ねずに「仲間を募って一緒に死ぬ」ということがあちこちで起きているじゃないですか。あれも根底に流れるものは同じだと思うんです。

「一人で死ね」と言われるまでもなく、本人はそうしようと長年、悩みに悩んで、やっぱり一人では死ねない、仲間が欲しい、そして道連れが欲しいと病的なことまで考えるようになる人も出てくる。でも大多数はそう思っても実行はしないのが当たり前。

何度も書きますが、そういう人たちを擁護する気はまったくないんですよ。

でも世の中の「一人で勝手に死ね」というそういう風潮そのものが、彼らを追い込んでいるのは間違いがないと思っています。

村八分ってのはどこにでもある。でもそれをする人たちは「当たり前」だと思っている。誰でも危ないやつ、ややこしいやつには近寄らないで生きていたいし、自分が所属する団体、グループにそういう「危険分子」がいれば排除しようとするのは当たり前だと思う。でも「排除された人」がどうなるかは気にしないのね。「関係ないね」「勝手に生きれば良い」となる。

前にも書いたことがありますが、マレーシア関連のSNS上で、ある女性が「あの人は嘘つきだ。騙された」ということでやり玉に上がった。そして実際に何があったのか詳しく調べることもなく、「騙された」と言う人の言い分だけが取り上げられ、SNS参加者の多くがその相手の女性を攻撃しだしたんですよ。「とんでもないやつだ。除名しろ」と。

私にしてみれば、それは「リンチ」「裁判なしの死刑判決」で、そういうことをするべきじゃないし、少なくとも「何があったのか」は調べる必要があるじゃないですか。片方だけの言い分を聞いただけじゃなにもわかりませんから。それをSNSに書いたら、なんと私も攻撃対象になったんですよ。その時は、「こいつら、どうしようもない馬鹿だ」と正直思いました。

でも海外に出て楽しくロングステイを楽しみたい人たちにすると、「小さな不安も排除したい」という気持ちがあるのは私にもよくわかる。だから日本国内ならなんてことがないことでも、海外だと「村八分の傾向」は強くなる。皆さん、ガードが固くなるのね。結局、その女性は除名に決定。

私はその女性と会ったこともなかったのですが、気になって電話番号を教えてもらい、話を聞こう、慰めようと思って電話をしたんですよ。

すると、その女性は泣きながら「死にたい・・」と言っていた。

何があろうと、いい大人が、いい大人に「死にたい」と言わせるまでのことをするか?

マレーシアの日本人ムラ社会は狂っていると思いました。(この事件の真相は、「かなり長くマレーシアに住み、マレーシア的なものの考え方をするその女性」と、日本から来たばかりで「そういうマレーシアに詳しい人達は何も知らない自分を助けてくれるはずだ」と勝手に信じていた依存心が強く、自立心が欠如している女性とのすれ違いだと思った)

海外で、日本人が狭い日本人社会から排除されるって、「死刑宣告」と同じなのがわかっているんですかね。気の合う仲間だけで固まって「私達は助け合って海外生活を送っています」なんてのは大嘘でしょ。「同胞の落ちこぼれは絶対に出さない。助ける」というのが海外で住む人たちのお約束だと私は思うのだけれど(ゴールドコーストではそれが普通だった)、それがマレーシアに無いのは「ロングステイで気軽に遊びにきているから」だと私は想像しています。人生を楽しむ為に来ているのだから、ややこしいことに関係したくないのは理解できる。

結局ですね、話は元に戻りますが、これと同じようなことがどこでも普通に起きているんですね。

「ちょっと変わっている」というだけで排斥される。変人だと言われる。私がそれでした。(笑)

でも本当にもっと変わっている人っているし、病気の人もいて、本来は手を差し伸べる必要があるのに、「あいつは無視しろ」「距離を置け」ってなるのが世の中の常。でもそれはそれで良い部分もあって、「皆と協調する大事さを理解する」のは「村八分になる恐怖から生まれる」のかもしれない。ま、日本はそういうプレッシャーを掛けるのが上手い社会で、「出る杭は打たれる」し「障害者も軽視される」社会。そういう面倒くさい日本が嫌で海外に出る人も多いけれど、海外には日本以上に強烈な【日本人ムラ社会】が待っているのが普通。だから海外に出ても日本人とは一切付き合わないという人もかなり多い。私は違うけれど。(笑)

こういう社会で「一人で生きる」のは簡単じゃないんですね。まず「自分がきっとおかしいのだ。悪いのだ」と思って「社会や環境に合わそうと努力する」のが普通じゃないでしょうか。変人扱いされればそれを治す、病気があるならそれを治す、障害があるなら、障害があっても生きていける術を探す。

でもそれも断念するしかないと思う時もあるんですね。そしてそれの先には「自分はこの世にいないほうが良い」という結論が待っている。

でも死にたいと思っても死ぬのって簡単じゃなくて、でも死にたいという思いが長く続くと病的なことも考えるようになるのね。仲間が欲しい、そして自分に関係なくても道連れが欲しいとまで考えるようになる。孤独を乗り越えられない場合、関係のない道連れでさえも「自分の仲間」と思ってしまう病的で恐ろしい事が起きる。当然、そう心では思ってもそれを実行する人は極々少数派で、多くは自分を責めて暗黒の世界に埋没して行くんでしょう。

だからなんなんだよって思うでしょう。当然、そういう人たちを擁護するべきではないし、勝手に一人で死ねばいいじゃないかと思うのもわかる。

でもね、私には絶対にこれは間違いがないと思うことが一つあるんですよ。

この広い世界に、たった一人、たった一人だけでも「自分のことを真剣に考えてくれる人がいる」のがわかれば、「孤独の恐怖」からは逃れられるのね。

「勝手に死ね」「あいつに近寄るな」「排除しろ」という声がどんなに大きく、それが大多数だとしても、「わかり合える友が一人でもいれば」それだけで孤独から開放される。死のうと思う気持ちから開放され、生きようと思う意思が生まれる。これは間違いがないと私は確信があるんですよ。

でもそのたった一人の理解者もいない場合は、奈落の底まで気持ちは落ち込んでいくし、善悪なんてこともどうでもよくなって、まさに地獄に向かってまっしぐら。

もし海の孤島に自分ひとり取り残されても、自分には「待っていてくれる人」がいると確信できれば希望を捨てずに生きていける。ところが大都会の真ん中で、周りにいる多くの人たちを見た時に、「ここには自分を理解してくれる人は一人もいない」ことに気がついたときにはとんでもなく耐えられない孤独と恐怖を感じるはず。

孤独とは一人の時に感じることではなくて、大勢の中で感じること。そして、もし体の具合が悪くて倒れれば、助けてくれる人もいるだろうけれど、孤独で辛くて気が狂いそうでもそれは誰にもわからない。気が付かない。気にもとめない。「孤独で気が狂いそうです。助けてください」なんてことを言えば、人は驚いて逃げていくだけ。そんなことはわかりきっているから何も言わないのが普通で、どんどん自分の中に沈んでいく。そして「(まともな)自分を演じながら生きる」ようになる。

そんな経験は誰しもあるさ、という人も多いでしょう。そして自分は努力して立ち直ったと。自殺だの、道連れだの、そんなことを考えるのではなくて、そういう自分から立ち直ってまともになる努力が大切なんだよと。

そんな教科書みたいなことは誰だってわかっているのね。でも立ち直れない人、立ち直っても一生その波が何度も来て悩む人、って世の中にはとんでもない数の人たちがいるんじゃないですかね。ある意味、そういう人たちは「自殺」「道連れを連れて自殺」の予備軍かもしれない。

こういう人たちに取っては「ば~~か、勝手に死ね!」という言葉こそが、救いのない絶望に追い込む。うつ病の人に「頑張れ!」は禁句なのと同じ。

ああいう大事件を起こす前に、病的になるまえに、どうやったら彼らを孤独や疎外感、自信喪失から救うことが出来るのか。

それを社会が、家族が、友人知人が考えるべきことだと私は思うんですよ。病いは「身体」だけじゃなくて「精神」にも起きるのに、精神的な病いは放置、無視、排除する社会っておかしくないですかね。

ところが今の社会は「無視しろ」「排除しろ」でしょ。これじゃ、追い詰められた人は「世の中に仕返しをしてやろう」と考えるようになってもおかしくないと私は思う。しつこい様だけれど、だからといって犯した罪は罪で、許されるわけもないのは当たり前のこと。

これって私は「イジメの構造」と似たようなものがあると思うんですよ。世間一般は「被害者だけ」は気になって心を寄せる。でも「いじめっ子」をどうするべきかは真剣に考えない。とにかく「排除する」、「罰を与えるだけ」っておかしくないか?これって「おかしなやつは村八分にすれば良い」のと同じ考え方でしょ。「臭いものには蓋をする」ことで解決なんかするわけがないのに、その方向にまっしぐらな今の日本を私は強く感じています。

日本ほど「本音と建前」が別れている国って私は他に知らないのだけれど、「建前だけ繕う社会」の行く末ってとんでもない社会になると思う。日本の政界や経済界、学会もその傾向が非常に強いと思っています。「おもてなし」も良くてそれを絶賛する外国人も多いけれど、他国の人たちは「日本人のおもてなし(や笑顔)の裏にあるもの」には気がついていないんだろうなと思ったり。

「他人に迷惑をかけるな」というのは日本の伝統、文化だと思うけれど、それは「表の話」であって、「他人を助ける」のも同じ日本の伝統、文化のはず。でも最近は「他人に迷惑をかけるな」という表面的なことばかりが重視され、もっと大事なことが軽視されていると感じています。

ちなみに我が家は「他人に迷惑をかけるな」と子どもたちを育てませんでした。多分、一度も言ったことがないはず。でも「人は迷惑を掛け合い、助け合って生きるものだ。迷惑をかける事を恐れるな。そして迷惑を掛けられても助けろ」と育てました。変わってるでしょ?でもこれって親子関係、夫婦関係、友人関係もそうで、それが真理だし、日本人が昔から持つ「美徳」だと思っている私。(笑)

そもそも「他人に迷惑がかかるか、かからないか」という判断基準って随分、安っぽいなぁと思うんですよ。「迷惑がかからなければ何でもOK」ってことになる。

私が昔から好きな言葉に「お天道様はお見通し」と言う言葉があります。神を信じるとか信じない、どの宗教?どの宗派?とか、神はいるのかいないのかなんてことはどうでもよくて、ただただ、良いことも悪いことも「お天道様はお見通し」なんだと。そして私はお天道様と仲良くしたいし、いつもお天道さまの笑顔を見ていたいと思うだけ。

今風の「人権」だの「個人情報」がどうだのと激しく拘る人、論理性が何よりも重要だと考える人(うちの息子がそれ 笑)には理解不能でしょ?

こんなことを考え、平気でブログに書くダボってのも随分、変わっていて危ないやつだと思う? ま、そう思うのが普通。私は慣れています。(笑)

あ、そうそう。もし今、思いつめている方がいらっしゃったら「死んだつもりになる」ってのをお薦めしたいなぁ。自分の悩みって「強い欲望と恐怖」に囚われているから起きるのであって、それを一度断ち切ってみるのも一つの手。自分が自分であるのはその「欲望や願望があるから」「本能に根ざしている」みたいな気がするけれど、それは大いなる勘違いだと思うんですよ。思い込みと言うべきか。

でもその根源の「欲望・願望と恐怖」を断ち切ることってやろうと思えば出来るし、時間がかかるかもしれないけれど「死んだつもりで自分を放り出すこと」で可能なはず。「自分」と「自分の思い」を切り離すことは絶対に出来る。死ぬことを考えるくらいなら、まず自分の思いだけ殺すことを考えても良いと思う。

それが出来た時に、「なんで自分は悩んでいたんだ?」みたいにすっきりして、青い空が美しく、そよぐ風が気持ちよく、野に咲く花の美しさが見えてくるはず。

そしてですね、自分がそれまで悩みに悩みぬいた生き方ってのが「自分の武器になる」ってことなんですよ。ここが重要。あの頃の苦悩に比べたら、世の中で起きていることなんか、全部、楽勝、オママゴトに見えてくるはず。

世の中の大多数の人が「一人で死ねよ」と言うとしても、私は言いたい。絶対に死ぬな!!!!と。

死にたくなったらマレーシアまでおいで~。まずは一緒に酒でも飲もう~~ぜ~~~~。遠慮は無用。

 
 
 

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3 thoughts on “「一人で死ねよ論争」に思うこと

  1. ダボさん、こんばんは
    すごいところに切り込まれますね、おっしゃるように、
    HELP EVER HURT NEVER
    ですよね。

  2. daboさんの考え方に共感します。
    おっしゃる通り、人を殺めてしまうことは、決して良くないことだけれど、そこに行きつく心理になるとゆうことは、当初は誰も望んでいないのだと思います。
    認知症だって、だれも望んでなるわけでもなく、それでも人々に迷惑をかけてしまうのですよね。
    そうゆう気持ちがありつつも、迷惑をかけられるような介護の立場にいざたってみるとなかなか認知症の行為を余裕をもって認められないことがあるので、自己嫌悪に陥ることがあります。
    自分の子供もそれなりには育っているので、「今までそれなりに生きてこられたのは自分の努力もあるのだけど、それだけではなく生まれてきた境遇によるところにも要因があるので、それにも感謝しなさい」と説いていますが、その言葉を自分自身が忘れてしまうこともあるので、修行が足らないなあと感じてます。
    こうゆうことを話題にあげてもらうことは、自分を見つめなおすことにもつながりますので有難く感じています。

  3. 中島さん、SJさん、コメントを有難うございます。

    しかし、ま、こうやって書きたいことを書いても、頭と感情は別に動くわけで、なかなか理想通り、やりたい通りにはできませんね。

    でも悩み続けているうちはまだ救いがあると思うんですよ。「これで間違いがない。俺は正しい」なんて思うようになったら終わりですもんね。

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