懐かしい写真が出てきた・思い出話

自宅の私物を整理していた所、昔の写真が出てきました。

これは気に入っていた写真なのですが、どこに行ったかわからず、またネガもなく、残念だ・・・と思っていた写真。

ほんとうに懐かしいです。友人(恋人ではない)と江ノ島にドライブに行った時の写真。白い点々はノイズではなくて雪です。綺麗だった・・・。

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この写真を見つけた時、「あった~~~~~」と大声を出した所、息子が「どしたの?」と聞いてきましたのでこれを見せたんですよ。

「へ~~~~、若いね~~~、20代?」なんて聞いてきましたが

「いやいや、これ18歳の時」

「うっそ~~~~~~~~~」ですと。(笑)

私が大学1年の頃で、まだまだ高校生の延長で両親に嘘八百並べてはうまいことを言って小遣いをセビッていた頃。アルバイトをしたことはあるっていう程度で「稼ぐ」なんてことはまだ先の話だと思っていて、ここに写っている車(2シーターのフェアレディ2000【SR311】)もオヤジに泣きついて38万円の中古を買ってもらったもの。ボンボンだという自覚はありませんでしたが、その部類だったのかもしれませんね。

私は小学校2年の時に地元新橋の小学校から当時有名だった区立麹町小学校へ越境で転校しました。当時は番町(小)-麹町(中)-日比谷(高)-東大と言われていた時代で、親がその線を狙ったのかどうか知りませんが(笑)、新橋の駅前すぐのところに住んでいて、小学校は新橋の商店のワルガキばかり行くようなところ(桜田小学校)では危ないと思ったんでしょう。親戚の家に住民票を移し形だけ千代田区の住民となりました。その後、そのまま区立麹町中学へ進んだのですが、私の成績は真ん中ぐらいだったですかね。

塾だの受験だのそういう周りの雰囲気がまるで無い時代で、私が中二になった時に親はこれじゃまずいと思ったんでしょう。家庭教師を付けられました。今思い出すとこの家庭教師、東大の学生だったのですが天才と言っていいくらい頭も良いし、進んできた道も凄い青年で、こんな風になれたら良いなぁなんてことは全く思わず、別世界の人だと思っていました。でも彼の教え方が良かったんでしょう。突然成績が上がりだして、それでも学年500人中、最高で68位という成績しか残せませんでした。平均的には100位前後。やっとトップ20%ってところ。

しかしやっぱり進学校って凄いんですね。勉強もろくにしない、成績もたいしたことないと思っていたのですが、毎年、上位連中は都立日比谷、教育大付属、御茶ノ水、私立で言えば開成だの武蔵だのへ進み、早稲田慶応はちょっと良い程度、その他の私立高校は中位以下というような学校でした(あとでわかったことですが、クラスは50人ですが、5人東大に行っていた)。偏差値は70以上が当たり前で、60台だと「お前?それで大丈夫?」って感じの学校。これって不思議なもんで、自分は勉強していないと思っていても他校に比べると勉強していたのかもしれないし、教育方法自体がまるで違うのかもしれない。それは今でもわかりませんが、全国レベルで言うと私の成績はかなり良かった。

私の高校受験もすんなり行っちゃいまして、都立高校は単独校の受験ではなくて学校郡制になって群を受けるのですが、私が受けたのは11群でした。日比谷、三田、九段の三校で11群になっており、群に受かってもどの高校に行けるのかはわからないというシステム。日比谷は有名ですが、三田は女子校みたいなイメージで、九段は全く未知の高校でした。この学校郡制になった都立高は当時の私の中学では「滑り止め」という受け止め方をしていて、私もそんなもんだと思っていました。

今思うとツイていたと思うのですが、入試のテストは三科目だったのですが、テスト直後の中学の授業で自己採点をしたところ英語は100点、数学は98点、国語は何点だか忘れましたが全く問題ないレベルで(都立の試験は簡単で、ミスをすると駄目というテスト)、結局、11群に受かり、日比谷高校に割り振られました。でも学校群になってから日比谷はダメになると言われていましたので、行くつもりは全く無く。でも国立とか有名私立校へ入れる成績ではなかったのでそれらは受けず(本音は大学受験なんて真っ平御免だった)、問題ないだろうと担任に言われていた早稲田、慶応(日吉、志木)、青山学院(親友に付き合った)を受け、これもすんなり。

当時(大嫌いだった)オヤジは良く慶応?と言われるタイプの人だったので、そして私は小さい頃から「慶応幼稚舎?」なんて聞かれる子供で、それに反発して田舎臭い学校を選びました。(笑)

面白いのは高校に入ってみると地方から来ている子が半分以上いまして、俺は学年1位だったとかそういうのが結構いた事。嘘だろ?って思いました。私なんか学年1位どころか68位が最高でしたし。(笑)

私が今でも「学校(環境)が大事」と思うのはこれが理由です。勉強するつもりがなくても周りの雰囲気に釣られるのだろうと思うし、もし私が小学校時代に進学校に転校せずに新橋の下町の学校を出て、親友は悪ガキばかりのところにいたらかなり違った方向になっただろうと思います。これは海外でも全く同じで、「英語ができたら・・」なんて親が思っているととんでもないことになるんですね。その土地の言葉なんか出来て当たり前なんですから。日本に「日本語ができたら・・」って思う親がいないってことをちゃんと考えないと。

高校時代も勉強しないクセはそのままで、真ん中辺りをウロウロしていましたっけ。でも段々と追いつけなくなるんですね。一夜漬けじゃテストをパスできなくなって、3年になり数学も微分積分が出て来てあたふたしましたっけ。そして成績はどんどん落ちて下の中ぐらいまで下がり、私の親友が二人いたのですが、3人揃って三バカトリオだなんてよく言われたもんです。

大学はそのままトコロテン方式で、付属校を卒業さえすれば必ず入れて、追い出されることは皆無(早稲田実業とか早稲田高校は付属校ではないのでまるで違う)。入る学部は志望リストを提出して成績順に割り振られるのですが、私は基本的には理工系に行きたかったのですが、第三志望まで理工系の学部、4番目が政経、そして志望リストの最後が商学部でした。当時、商学部はバカが行く学部と言われていて(本当のビリっけつは法学部に行かされた)、まさにその商学部へ行くことになりました。(笑)

まぁ何に一生懸命って遊ぶことしか考えていませんでしたし、大学も遊ぶ場所、青春を謳歌する場所だと本当に信じていて、その通りの生き方。(笑)

でも大学って難しくないと思ったんですよ。高校ではドイツ語が第二外国語で3年間勉強させられて、教材はニーチェの「ツァラツーストゥラはかく語りき(Also sprach Zarathustra)」なんてのをやっていたのに大学でまた初歩からやるわけですから簡単なんてもんじゃ無いし、英語のレベルも決して高くはありませんでした。そして大学らしい授業として経済学があるわけですが、最初の最初がマルクスですから、大学なんて何の役にも立たないってもう1年の頃から思うようになりました。他の授業も授業さえ出てテストでは頓珍漢なことを書いても「可」はくれますし、付属校のほうが大変でした。何も知らない若造ですが、やっぱり商人の家に生まれ育っていますし、オヤジの中小企業(家内制手工業みたいな)を見て育ちましたから、商学部という名前の割にはろくでもなくて大学の勉強って念仏を唱えるようなもので実社会とは関係ないぐらいに思っていました。

学生運動は私より上の世代で、校内ではそれがまだくすぶっている感じでしたね。でもある日、授業中に革マルの残党がそのビルを占拠してバリケードを作られて出るにでられなくなって慌てたことがある程度。でも構内では旗を振り回しマイクを持ってアジる連中は残っていました。そんな感じですからテストもなくレポートで終わるクラスもあったし、大講堂で教授の独り言を聞くような授業には全く興味でませんでした。

だから遊びまくりましたよ~~。ただ私の周りは結構真面目な奴、こじんまりした奴が多くて、一緒に遊んでも面白く無いんですよ。ですから知らないうちに慶応の連中と遊ぶようになりました。やっぱり慶応って凄くて伝統的な慶応ボーイってこういう連中のことなんだろうと思うような、生まれも育ちも家柄も経済的にも親の社会的地位も凄いのがいくらでもいて、彼らと遊ぶのが面白かった。でも彼らの多くは半端じゃない金持ちの子弟で、私は貧乏人の子みたいな感じでしたね。当時、大卒の初任給が3万にも満たない頃に、地方から出てきて毎月親から30万の仕送りをしてもらう名士の跡取りとか、学生でもポルシェに乗るようなのはいくらでもいた。昭和40年代ですよ。マイカーって言えばカローラの1000ccとかホンダのN360の時代。

スキーにも凝って年間30日滑った年もありましたっけ。慶応のたまり場、スキーの合宿で使う山荘が白馬にありまして、なぜか私だけ違うという変な環境でしたが私はそんな場所に入り浸っていました。面白いのは高校の時から早慶戦というと早稲田の学生服を着て慶應側に慶応の友人と座ってみたり。あの当時からやっぱりおかしいっていえばおかしな子供だったような気もします。でも高校時代はグリークラブは結構まじめにやっていたのですが、早慶戦もそうですが、何かあると借り出されるんですね。それが嫌で3年で止めたり。(笑)

まぁ、めちゃくちゃでいい加減だった学生時代。

その頃の写真が上の写真です。バカな子供がバカの絶頂だった頃。(笑)

でもこの写真がなぜ私にとって大事かというのは、この時を堺に私の人生がガラッと変わったから。

この時には、まさか次の年には金儲けに走り、またグアムを知りそこに入れ込むなんて全く想像もできなかったわけです。そして学生なのに起業して訳の分からない仕事にのめり込んでいくようになり、今に続くわけです。(笑)

なんだかこうやって思い出してみると、一体どこで道を踏み外したんだろう・・・って思います。小中学校の時には大好きな先生もたくさんいて、勉強はしなかったもののやっぱり真面目で立派な大人になりたいと思っていたんですよ。学生服の着方も真面目で、高校に入ってからもきっちりしているのが好きで、襟のカラーは絶対に外しませんでしたし、不良っぽい格好なんかしたこともない。でも高校時代に尊敬できる大人に出会えなかったというのが大きいような気がします。こんな大人になりたくないという人ばかりだったし、またそういう風に考える年頃だったのでしょうが、まじめに勉強して高みを目指そうなんて一度も考えたこともありませんでした。人生の目標らしい目標も持てませんでした。そういう意味では今のヤンキーと同じかもしれない。暴走族にも入りましたし。(笑)

そのくせ環境には恵まれていて、ずーっとすんなり行きましたから、人生って楽勝だと思っていたのは間違いがないんですね。学生で起業したなんてのもそれが理由だと思います。自信過剰でした。

でもそんなのはすぐに挫折するわけで、途中までうまく行ったとしても私にはトラウマがあって、いつもそれが頭を上げてくるんですわ。自信過剰と劣等感が交互に波のように押し寄せてきて、こんなはずじゃ・・・・と思うまでに大した時間は掛かりませんでした。でも引き返すことは出来ず、やり直しもできず、前に進むしか無いと思って不安に押しつぶされそうになりながら、泣き泣き生きてきたって感じですかね。(笑)

そして今に至る。(笑)

だからこの写真って私にとっては非常に意味のある写真で、私がバカの絶頂期だった頃を思い出すんです。だから懐かしいとは思うものの、内心ではあまり嬉しい懐かしさではない。

前にやっぱり偶然見つけてこの日記にもだしたことがある写真があります。これも若い頃ですが、29歳頃かな。

これも本当に懐かしい写真ですが、上の写真とは全く別人になっていました。11年後ってことですかね。ヨメさんと出会って恋愛中の時の写真。(笑)

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この頃には過去の馬鹿さは吹っ切れていて、経済的にはまだまだでしたが実社会の中で生きる道は見つけていて、ポルシェを乗り回し、赤坂六本木で(自費で)遊び、仕事的には20代で中小企業ですが年商30億弱の企業の取締役営業部長なんてやっていましたし、それなりに満足しながら生きていた時代。でもこれからは自分だけではなくて他人の人生をも背負ってどうにかして生き抜かなければならない。そして愛する人を守らなければならないことに目覚めた時期でもあるんですね。もうこの時期には若者のする遊び、悪さも大体し尽くしましたし(笑)、家族という感覚はまだありませんでしたが、愛する人のために生きることに集中しようと思いました。もう自分としてはやりたいことはやったという感覚をもうこの当時には感じていました。

この頃からでしょうかねぇ、私が真面目になったのは。(笑)

どんな悪さをしたかは、誰にも言えない、文字に残すことも出来ない、それこそ墓場に持って行かなくてはならないようなこともしてきましし、でも警察の厄介になることはしませんでしたが、倫理・道徳的には酷いこともやってきましたし、それは卒業しようと心に誓ったのがこの写真の頃です。

この女性がいまのヨメさんでもあるわけですが、ヨメさんだから大事にすると言うのとは別に、私の人生を変えた人。そして私が極度の偏頭痛で廃人同様になっていた時にそこから救ってくれた人。

だから「この~、ボケナス!」っていつも思うのですが、私の生涯をかけて守らなければならないと思っています。そして私が自分より何十倍、何百倍も大好きで大切な子どもたちを産んでくれた人。私を彼らの父親にしてくれた人。私に光をくれたこの女性と子どもたちの為だけに私が生きるのは苦でもないし、それが私の生き甲斐となりました。

でもその後、また挫折し結婚した後に仕事もなくサラ金にお世話になったり(ヨメさんは子供を連れて家を出ちゃうし 笑)、まぁ、いろいろありました。そしてまた復活し、なぜかオーストラリアに渡った。そして次にはマレーシア。なんだか忙しい人生のような気もします。(笑)

そんな今までの私の人生のストーリー、転機、その時の自分が何を考えていたかをこれらの写真を見ると思い出すのです。

そしてそんなストーリーもいつか終りが来るのも見えてくる歳になりました。

人生って本当に面白いですね。あーーー、面白かったってもうすでに思ってます。(笑)

後は子どもたち、子孫のことを考えて私の人生の仕上げをするだけ。

ですから私には「ご褒美人生」はいらないのです。というかもうご褒美は頂きました。ヨメさんと子供達が最高のご褒美ですし、生まれた時から私を大事にしてくれた両親がいます。生まれた時からご褒美を頂いちゃったようなもんですね。(笑)

 
 
 

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懐かしい写真が出てきた・思い出話” への8件のコメント

  1. はじめましてdaboさん。かなり前からブログは読ませていただいておりました。内容に共感したり、えっ!と思ったり、尊敬したりなのですが、読み終えてコメントしようとすると、daboさんの文章の情報量が多く、自分の考えをまとめることが出来ず、うなづいて終わっていました。ただ今日の内容は私の、小中学校当時と似ており、コメントさせていただきました。私はdaboさんより少し下の年齢ですが、高校は11群の九段でした。私立の附属高校も受験しましたが、エスカレーター式に行ってしまうと勉強しないと思い、都立へ進学しました。また、親友が慶応へ進学したのですが、とんでもない金銭感覚の連中が多いとも言っておりました。自分の中高校時代も思い出し懐かしく思いました。そして、daboさんのご家族への想い、御自身の考え方、とてもステキだと思います。これからも色々な情報、考え方発信して下さい。応援しています。

    • tkt0807さん、コメントを有難うございます。

      11群の九段ですかぁ、同じ時代を行きたんですね。しかし都立高の勉強って大変だったでしょうね。付属校は勉強しないってことに関しては、他の学校はわかりませんが、学院はそんなことはなかったですね。勉強しなくてどうにかなる環境は良くないかもしれませんが、出来る連中は受験勉強をする必要がありませんから、好きな分野をどんどん伸ばせたはず。

      今は知りませんが、あの当時には大学のトップクラスとボトムクラスに学院出身がいると聞いていました。もちろん私はボトムクラスですが。(笑)

      慶応はやっぱり凄いと思いましたわ。大企業の御曹司もいたし。私は新橋の商人の子ですから別世界で本当に驚きました。でもこうやってあれから40年もたってみますと、彼らが本当に幸せに生きられたのかというと別問題ですね。

      私の親友で、慶応幼稚舎から大学院まで行ったのがいて、彼も御曹司ですが親の仕事を引き継ぐために理工学部でまじめに勉強していました。その後、数年外で修行してから家に入ったのですが、その辺で付き合いはなくなっていた。

      ところがですね、NHKのドキュメント番組を見ていたらなんと彼が出ていたんですよ。長い不況にやられて会社も青色吐息、本社も工場もなくなって、ある地方の片田舎で細々と仕事を続けていて、それももうダメで、従業員を集めて希望退職者をつのり、残った古株は減給、退職金も減らされて生き残りを図る企業という紹介をされていました。

      いわゆる慶応ボーイらしく贅沢に育った彼が、やせ細った老人になっていて、顔には笑顔はなくて深いシワだらけ。彼は私の他の親友の彼女を奪って学生結婚したのですが、フェリス出のこれまたお嬢様育ちの彼女はどんな生き方をしたのかと想像するだけで、世の中の怖さを感じました。

      そういう意味では私は野良犬だから気楽なもんで、うまく行こうが失敗しようが誰も気にしないし、好きなことが出来たというのは本当は幸せだったのかもしれない、なんて今になると思うのです。

      多くの人に助けられて生きてきたし、何か見えないものに助けられていると感じたことは何度もあったし、命のない物品や建物や事務所でさえにもなんらかの力が働いていると感じますし、「感謝して生きろ」ってこういうことなのかってわかったのが60代になってから。(笑)

      でも、もしあの頃に戻れたら同じように生きるか?と聞かれたら絶対にイヤです。冗談じゃないって思う。(笑)

      勝手気ままなブログですが、今後もよろしくお願いします。

      • daboさん最高です。私が私立の附属を選ばなかったのは、自分が楽な方に行ってしまうからです。でも私は、あの頃に戻ってもいいかなと思います。ただ多くの人々に助けられ、見えないものに助けられたということも、本当に思います。

        • 確かに付属校の自由な環境にいると良い意味でも悪い意味でも伸びるのかもしれませんね。(笑)

          あの頃に戻るですか・・・・。もし今の知識、経験、ノウハウを持って戻れるなら是非戻ってみたいです(笑)。世界に挑戦したいし、それなりに勝ち目はあると思うし、多少は社会に貢献できるかもしれない。

          私がいつも親と子が途切れてはならないと思うのはまさにそれで、親ってノウハウの塊ですよね。それを子供に繋げないなんてこんなもったないことは無いと思うんですよ。

          慶応ボーイがなぜ好きだったかというのは、確かにアホもいたけれど多くの慶応ボーイはただのボンボンじゃないんですね。私が「帝王学って本当にあるんだ」と思ったのは彼らを見ていたからで、子供のくせにして大事なポイントは理解しているんですね。あれはやっぱり親の教育だと思いました。

          多くの人に助けられって話ですが、最近の親御さんって子供に「他人に迷惑をかけるな」って育てる人が多いじゃないですか。あれって私は変だと思っていて、他人に迷惑をかけずに生きれる人って世の中に存在するのかと思うぐらい。

          昔良く「人というのはな、字を見てみろ、支え合うから人なんだ」なんて臭いことを言われましたが(笑)、確かにそれってその通りで、迷惑をかけろとは言いませんが、迷惑をかけ、掛けられ、皆で前に進むもんだと思うんですよ。でも他人に迷惑をかける事を恐れたら何も出来ないし、他人の目を気にするろくでもない大人になるような気がします。

          私なんかこんな性格だから、他人には言いませんが自分の子供達には「どんどん迷惑をかけろ、恐れるな」って育てました。その代わり「代償は払え」と。あるいは恩返しであり、後に続く者達の面倒を見るってことですよね。

          でも近年の近隣諸国を見ていますと、迷惑は絶対掛けないからこちらのことも放っておいてくれ、そして何があってもぜーーーったいに助けないぞ、なんて思っています。(笑)

          まだまだ悟りには程遠いようです。(笑)

  2. ダボさんてご自分で変人だとおっしゃりますが、確かにそうかもしれないですしその原点を見せていただいたような気がします。面白そうな人生ですがとても怖そうで私には耐えられないだろうと思います。

    • あはは、恐ろしいと感じました?

      私はよく自分を野良犬と言いますが、そんなのは小さな商店、中小企業では普通なんですね。だから私の周りには野良犬しかいなかったし(笑)、そういう生き方が普通だと思っていたんです。

      でもその苦労をイヤってほどわかる親は、子供に自営業なんかやめろ、独立なんかするなと、「良い学校を出て良い大企業に勤めること」を薦めるんじゃないかと思ったり。

      ですからサラリーマン的な見方をすれば野良犬の生き方って波乱万丈に見えるのでしょうが、これが原点だと私は思うんですよ。またサラリーマンも随分昔と違って来て、「野良犬的処世術」が必要な時代になったんじゃないでしょうか。

      勝負をすればかならず負けることもあるわけですが、野良犬的処世術がわからない人は「負けた時に再起不能になる負け方」を平気でするんですね。私の友人で、親が資産家だったのに自分が独立して親を巻き込んで、先祖代々の家屋敷も抵当に入れて借金をして、ものの見事に綺麗さっぱり失ったのがいます。

      野良犬はこういうことは絶対にしないわけで、「倒されても再起可能な倒れ方」を常に考えているわけですよ。これって大企業でも同じだと私は思っていて、「今がチャンス」と全てのリソースを賭けて大勝負しておかしくなる企業っていくらでもあるじゃないです。そして再建も出来ないような。

      ま、そんなこともありまして、野良犬の処世術って現代の日本、あるいは海外で起業をする人たちにとってもMustと言っても良いノウハウだと思っています。

      ま、そんなこともこのブログに書けたら良いなぁ・・と思っています。「やる気」だけじゃ長い年月を生き抜くことは出来ませんから。

  3. 過去をふりかえらないで生きてきて、急に遠い昔のことが眩しく蘇って、、そういうことってありますねー

    daboさん、十代の頃の写真、とても大人っぽく見えます、
    嬉しい懐かしさでないなんて、そんな風に思わないでも、、
    笑顔の感じは、今と変わらないのでは。。

    フェアレディZ、車に詳しくない私でも知ってます、、とても人気でしたね。生みの親、ミスターKこと片山氏は湘南育ちの慶応ボーイで、若い頃の多摩川スピードウェイ(日本で最初のサーキット、今も東横線から跡地が見える。)の写真見たことがあります。自分用のフェアレディもってるなんて、、確かに、慶応ボーイぽいですね。応援歌の替え歌で、「慶応の車はセリカにソアラ、早稲田は畑で耕運機、タラリララララ〜」みたいのがあったような、、(早稲田の方すみません)

    麹町中、日比谷高校、東大というエリートコースがあって、加熱しすぎたので、日比谷潰しのために学校群制度がいれられたという話は聞いてました。
    結局、その後は、学校群制度は廃止になってしまいましたね。
    進学校の中で良い内申をとるのは大変だったのでは。都立のトップだと、全部の教科で、5段階評価だったら5とらないといけないって。。
    日比谷を蹴って私学に進学する、、もうそういう時代になっていたんですね。。。
    私も都立ですが、中堅校で正規分布曲線の真ん中ぷかぷか、簡単でミスをするとダメという都立のテスト、ぼろぼろ落とすし。
    、できる人はできるんだなーと雲の上のイメージ。

    私学の良さってあるんですね、受験勉強でなくて、教養に比重おくような授業があるんですね、高校でニーチェ、、、。妹は都立のトップ校にいきましたが、伝統が根強く残っている感じで、出身者のつながりも強そうでした。

    奥様と恋愛結婚なさって、、添い遂げて、、娘をもつ母親だったら、「生涯をかけても守らなくてはいけない人」と思ってくれる婿さんありがたいですね。。

    ご褒美人生という言葉も素敵だろうなとは思いますが、私も、自分へのご褒美はもういらないかなあ。。

    野良犬の処世術と、墓場までもってゆきたい秘密というのは、もう少し伺ってみたいような気もします。。

    • あの車はですね、フェアレディZではないのです。その前の型のフェアレディでフェアレディ2000と言います。全く形も中身も違います。私はこの後にフェアレディZに乗り換えたのですが、面白くもなんともない車でした。そもそもZはすでにあった乗用車の外装を変えたところから出発しているんですね。でもZはZでもZ432はレース用の有名なエンジンを載せていて面白い車でした。

      学校群ですが、一極集中を無くすためだったんでしょうが、結局、都立高全体のレベルを下げることになったんじゃないでしょうかね。

      私学というかトコロテン方式ってやっぱり良いと思います。受験勉強は一切しませんから幅広く、そして自分の好きなものに打ち込む時間がありますから。ただ私みたいに勉強しなくてもどうにかなる部分もありますが、では皆、楽をしているかというととんでもなくて、行きたい道をはっきり持っている連中はそれなりに競争が激しくてガリ勉は結構いました。

      本当に勉強しないと落第させられますし、3年生になると落第経験者って1割以上になるんですね。私の友人で112233と落第を3回したのがいまして、落第2回連続は放校になるはずで、最後は大学進学をしないという約束で卒業させてもらった様子。(笑)

      また東大に行ったという話は知りませんが、医者の息子で慶応の医学部に行ったのはいましたっけ。トコロテン方式は最低でもその大学へ行けるわけですが、もっと上を狙っている連中は大変だと思います。受験勉強は別にやらないとならないし。でもま、今の時代は欧米と日本も同じになってきて、本当の勉強は大学院でするという感じですし、自由に勉強できるトコロテン方式はやっぱり良さそうに感じます。

      ヨメさんは天涯孤独ではありませんが、両親も最愛の妹も亡くし、行くところも頼る人もいないわけです。自分一人で生きる力もありませんし。となれば私がどうにかするしかないわけで、「この馬鹿野郎」と思っても捨てちゃうわけにはいかないのです。(笑)

      老後に「ご褒美人生」を考える人って、どれだけ辛い生き方をしていたんだろう・・って不思議に思います。

      野良犬の処世術はまたの機会に。墓場まで持っていく話は、あの世に行ってからお話しましょうか。(笑)

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